S.T.ポスト、P.J.ホワイトハウス
訳:社会保険神戸中央病院 精神科部長 岸川雄介
このガイドラインは、介護家族およびアルツハイマー型痴呆に罹っている方々との会合の内容をまとめたものである。彼等は痴呆のケアに関する倫理的問題をきちんと認識し、そのことについて語った。また彼等は、アルツハイマー病に関係する分野で仕事をしている学際的な専門家のグループとの話合いに参加した。このような帰納的方法は、理論的かつ演繹的な倫理問題へのアプローチとは対照的に、病気に罹った人々とその家族の声に注意を傾けることから始められた。
1993年10月から1994年6月まで,痴呆のケアに関する倫理的側面について確認し、意見を述べるために、家族介護者と軽度のアルツハイマー型痴呆の人が集められ毎月会合がもたれた。それ故、このガイドラインはまだ痴呆に関わっていない家族や初期の診断の段階を想定している。痴呆に関心のある専門職のグループは、ボランティアとして参加した患者や家族の意見を聴き、質問をし、彼等と討論をした。
看護管理者、医師、法律家、倫理学者、行政職員を含む人種的に多様で教育レベルの高い人達のグループが集まった。「倫理的問題を語り合う」という私達のとった方法は、社会的に熟慮された道徳的な同意という形をめざし、倫理学的理論や隠遁的黙想に重きを置かないようにした。これは哲学的に慎重� �期した方法であり、倫理を問題を抱えている一般社会に取り戻させる方法である。さらに、演繹的に用いられた道徳的理論では扱いそこないやすい問題やニュアンスに、介護者や痴呆の人々が生気を与えることが出来る方法である。
真実を告げることと診断
車を運転する権利
選択の尊重:自主的決定権、能力そして権限
行動コントロールへのジレンマ
死や死にゆくことに関する議論
生活の質(QOL)と治療の選択
おわりのコメント
真実を告げることと診断
アルツハイマー病の診断(Probable AD)ついて、このことを拒む者もいるが、医師は患者やその家族に説明すべきである。診断に関する話し合いは、感情的問題に対処できるように、診断を受ける人と家族との合同面接においてなされるべきである。臨床医は、患者にどのように情報を提供すべきか−直接本人にか、家族面接の場でか−を尋ねてもよい。
もし家族が診断を受ける人の同席を拒む場合、彼らは、彼らが放棄しない限り倫理的にも法的にも同席する権利をもっていることを家族に明らかにしておくことは重要である。 病名告知の際には、診断を受けた人や家族からの質問、および医師の助言のために時間をかけるべきである。患者や家族が事実をよく理解できるようにすべきである。例えば、アルツハイマー病が不可逆的で進行性の病気であるとしても� ��その病気のいくつかの症状は治療しうること、アルツハイマー病協会が援助している支援グループなどがあることや、病気のすべての段階に応じた援助が得られることなどを説明するべきである。 軽度の患者や家族にとってアルツハイマー病と診断されることに伴う気持ちの整理が必要であるが、こうした方法でこの整理を適切なものにすることができる。進行した痴呆の診断については本人への説明はもはや意味があるとは言えず、必ずなされねばならないというものでもない。診断を告げる際には、罹患している本人や家族に資源の利用を指導する責任がある。看護計画が話し合われ、同意が得られなければならない。それには、個人的価値観や延命のための先端技術の使用に関する話し 合いも含まれるだろう。軽度に罹患した患者に診断を告げるときには、比較的障害されていない機能で残りの時間を最大限楽しむにはどうしたらよいかということを計画できるようにするべきである。
たとえば、彼らは医療計画を作成することができるのである。そこには"事前の指示"の執行(ヘルスケアや生前の意志に関する永続性のある委任状)やアルツハイマー病研究への参加の同意も含まれている。病名を告知するときにはまた、カウンセリングを受けたり援助グループに支援を求めることで痴呆になった人が、怒りの感情、自責の念、恐怖やうつ状態を軽減できるようにしてあげるべきである。介護者の精神的適応に対する介護者援助グループの有効性についての詳しい検討はまだなされてはいないが、多くの研究はそ れが介護者の介護機能を高めていると報告している。
将来、遺伝子テストがアルツハイマー病についても広く用いられるようになるだろう。アポリポ蛋白Eのあるサブタイプを持っている人においては、そのことと進行性のアルツハイマー病への罹り易さとが関係があると言われているが、このような情報の有効性はまだ決定的ではないし、テストも研究レベルでしか行われていない。このテストが通常のものとなるのかどうかに関しては、インフォームド・コンセント、テスト前後の遺伝子カウンセリング、そして、いつ誰がそれを利用できるのか、家族構成員のテスト結果を知りたいという家族の希望など、多くの議論がなされるべきであろう。
車を運転する権利
アルツハイマー病と診断されることは、それ自体としては運転する権利を奪うに充分な理由にはなり得ない。運転する権利の制限は多くのアルツハイマー病患者にとって初期の微妙な問題である。自立と自制が強く求められる伝統を有する社会では、移動を他人の手にゆだねるということは、みじめな身分になったと受け取られる。車の運転はしばしば個人と自由の象徴であり、それを制限されることは歓迎されるものではない。
けいれん性疾患、不整脈やその他の疾患の場合がそうであるように、障害があることによって公衆の安全のために車の運転は制限される。実質的にはアルツハイマー病の人は皆自分や他人に対して重大な危険性がある場合は、車の運転をやめるべきである。しかし、軽 度ないし中等度の痴呆では状況はもっと複雑である。アルツハイマー病と早期に診断された場合、最初の3年間は他のドライバーと比べても交通事故の危険性は許容範囲内である。事実16才から24才の若者に比べれば危険性は充分に低い。早期診断から2、3年が経過すると大半の痴呆を有する人は車の運転をやめている。診断後5、6年以上も運転の可能な人もあるが、それは病気の進行の程度と診断の時期による。車の運転をやめなければならない義務というのは、無条件に、または個々人の運転能力障害の危険性を評価せずに適応されるべきではない。
アルツハイマー病と診断された人の、医師の報告義務は秘密裏になされる。いくつかの州はアルツハイマー型痴呆患者の報告を義務づけており、その情報は運輸局に伝え られる。その上でその患者は運転能力の評価を求められる。このような手続きは、医師や家族を裁判(もし患者が事故を起こした時)の恐怖や、危険性を評価し同時に公衆に対する責任を明らかにしなければならない義務から開放してくれる。この手順は秘密裏に行われるので、痴呆になった人のある部分は医療を受けるのが遅れる可能性がある。しかし、実質的には彼らは家族や医師の注意を引きつけることになる。
物理的な外観を向上させる方法についての方法
痴呆になった人の家族からの問い合わせを受け付ける、ある種の機構や、不利にはならないような運転能力テストに関する地域組織は有用性があると思われる。運転能力を評価するための最も良い方法や再試験の間隔に関して議論が続けられている。これらの観察や経験から、家族は運転技術の評価に精通することができる。しかし、患者に実際に「運転席に座って」もらい、痴呆による判断能力の問題を見つけ出すことができるよう訓練された第3者的な検査者によっておこなわれる運転テストは、患者の同意を得るのに有効だと思われる。 痴呆になった人と家族が、決めた時に運転をやめる様な自主的な運転制限(例えば、日中の慣れてい る近所に限るとか)はよくなされていることである。痴呆になった人は可能なら運転制限に関する議論に参加するべきである。
車の運転やその他の日常生活活動に関する制限は、症状のある人、家族やヘルスケアの専門家との間で同意され、具体的に決定されている。制限に対する個々人の反応は、即座の受け入れから強い抵抗を示すものまで様々である。受け入れることを促すためには、制限されることに同意した人に対して家族などが必要な時には移動に協力してくれることを保証すべきである。家族は、非常に危険な活動の代替案を実際に示すことで、痴呆になった人との無用な葛藤をさけるべきである。
理想的には、権利というものは、ギャップを埋め、喪失感を薄め、自分をコントロールしているという感覚を保� �るような方法を提供することなしには制限されるべきではない。妥協や適応は、痴呆になった人が自分の能力の減退をよく理解している場合に、ケアしていてかつ状態に精通している人との間でなされれば、十分にその要件が満たされているといえる。しかし、病気を理解していない患者であっても、家族は車を運転できないようにしても良いのではないだろうか。
車の運転以外の日常生活活動に関する制限も痴呆になった人には大きな意味を持つ。例えば、青は渡っても良いという意味だということを忘れてしまった人は、ひとりで歩いて道を渡らないようにした方がよいだろう。料理をする権利に関することもある。徐々に、緩やかに、納得してもらった上での権利の制限がベストであり、その能力をなくした人に対して他の� �味のある活動の代替案を提供する努力をしながら、出来る限り権利と自由を守るべきであろう。
選択の尊重:自主的決定権、能力そして権限
痴呆になった人も、特定の作業や選択に関する残された能力を使うことは認められるべきである。このような選択を否定することは、彼等の独立性や尊厳への挑戦である。痴呆になった人の多くは、彼等がまだきちんとした決断が出来ると思っている分野で、その能力を行使したいという望みを踏みにじられるとかなりつらい思いをする。だからそうしたことはさけるべきである。決断能力は、理解し伝える能力、将来の結果を熟考し判断する能力、そして価値や目標に関するある種の安定した判断をする能力を含んでいる。我々の会議で意見を述べた人々の多くは、この能力の評価基準は、決断によってもたらされるであろう損害や利益によって様々であると主張している。� ��いリスクを伴う結果をもたらすものは、能力の程度と制限の強さは相殺されるであろうが、高いリスクを伴うものではより厳密な評価基準が必要となろう。医療上の決定に関して権限がなく、よって医療拒否は無視されると宣言することができるのは、法律だけである。
能力の喪失が起る前にあらかじめ自主的決定権を拡張しておくためには、不動産に関する遺言(estate wills)、生前の意志(living wills)や、ヘルスケアに関する永続性のある委任状の作成などが必要となる。痴呆を医学的に宣告される以前の全く正常な自己は、重度に痴呆化した自分のための無駄のない治療内容に関して、その意思を記載する権利と権限を有している。このような決断に関する、痴呆になる以前の自己の判断能力に関して、その人が痴呆状態を経験したことがなく、かつその状態にあまりに否定的な見方をしいる場合は、疑問を投げかけることが可能である。しかし事実上は、法的に治療の制限を決める権利が事前の意思の登録として確立されている。
"権限がある"と"権限がない"という言葉は、正規の法的措置によって決められる法的状態に関してのみ用いられるべきである。裁判所は権限がないことを、ある領域―例えば業務処理―に� ��いては宣告することが出来るが、その他の領域―例えば治療判断―においては出来ない。我々の会議で意見を述べた人々は、医療現場における医師の評価と法的な状態とを区別するために"能力がある"と"能力がない"という言葉をより好んでいるようである。痴呆になった人の自主的決定権に関しては、法的文脈とは別の、特定の作業に関する能力評価(「機能評価」)の必要性に関心が向けられている。
権限があるかないかの法的判断には、痴呆になった人の精神状態が反映されるべきであって、他者の要求や困窮度合いが反映されてはならない。痴呆になった人々は、彼等が衛生上だらしなく自制心にかけ、事故に遭いやすく住居をきちんとしておくことが出来ないので地域社会からは歓迎されない。特定の作業(例えば� ��産管理)に関する法的後見人を選定すれば、彼等が地域に残り、(多分、掃除などの面で助けを受ければ)ある程度の自立性を維持することができる。
痴呆になった人が彼等の能力を超えて何かをやろうとして、その人自身や他の人に重大な危険が起こりそうな時に、問題を処理するために法的決定が行われる必要はある。 担当医師は日常的に、法的ではないがおそらく有効な判断を特定の能力に関して下している。決断能力を有する人は次のようなことが出来なければいけない。
1)選択権があることの意味が解っていること、
2)医学的状態や予後、推奨されている治療の性質、それらの治療の代替案の危険性と恩恵、そして予測される結果を理解できること、
3)一定の時間、判断の安定性を維持できるこ� �、逆にかなり判断内容の動揺が認められれば能力のないことが示される。
能力評価は単純なもので常識的なものである。例えば、老人の患者の会話内容が明らかに滅裂であったり、ほとんど情報を保持できず同じ質問に正反対と思われる解答を述べたり、またはある判断やその代替案の結果に関してきちんとした理解力がない場合などである。情報は把握されもしないし処理もされない。自主的決定権を保護するべき妥当性は見られない。優柔不断さや心変わりは、能力のなさを示すことにはならないが、進行したアルツハイマー病患者は瞬間瞬間に全く矛盾した形で判断が揺れ動くので、それは能力のなさの明らかな証になる。このような判定が困難なら、担当医師は正式に精神医学的評価を求めることもできる。ある程度進行� �た痴呆の人でも時々明晰な時期があり、意味のある判断もできる。ある人々は一日の早い時間帯では比較的明晰であるが、疲労すれば次第ににぶくなる。アルツハイマー病の人はMMSEや他の認知障害テストでスコアが悪い。しかし、これらのテストは作業ごとの能力を決定するものではない。ある特定の作業に関する理解能力や判断能力を検査するには、質問をし議論をしてみることが必要である。
行動コントロールへのジレンマ
残された能力を創造的に引き出すような活動は、関連したものや周囲の環境の変更と合わせて、痴呆になった人の行動によい影響を与えてくれる。例えば、美術や音楽のプログラムは役に立つ。興奮に伴う行動に対してはヘルスケアの専門家や家族は、静かな環境をつくり、驚かさない態度を維持しながら、興奮している人にゆっくりと静かに近づき安心感を与えるような優しい声を用いればよい。 徘徊は、ナーシングホームで26%、自宅介護で59%の人にみられている。
"ライフサポートに関するいくつかの良いものは何ですか? "
いくつかの研究は徘徊がストレス処理の方法として、特にアルツハイマー病になる前にストレスに対して散歩など体を動かすことで対処していた人には、奨められべきだと述べている。徘徊の病因としては、なにか現実の物かイメージ上の目的物を探していること、不穏、不安が挙げられている。痴呆になった人の多くは全く徘徊しないが、徘徊する人ではそれは予期せずに起こる。周囲の環境を変えれば危険を充分に避けることができる。アルツハイマー病の人は安全なところで徘徊ができる自由を持つべきである。何が徘徊の原因になっているのかを考えることは大切である―例えば、環境の変化、騒がしい音、精神的に困惑させるほどの過量の投薬、身体的要求など。様々な副作用があるために、現在のところ他の� ��意義な活動には影響を与えずに徘徊だけを治療できる薬はない。 身体的拘束は不必要な固定をしてしまうために危険である―例えば、患者は自由になろうと格闘するためにその過程で体を傷つけてしまう。身体的拘束による傷害には、血行障害、動けないことによって起こる病気、興奮の増大がある。
痴呆になった人の安全性への配慮は大事であり、ひ弱な老人の転倒は重大なものになりやすいが、身体的拘束による傷害も安全性を犯すものと考えられるべきであろう。さらにいえば、身体的拘束はアルツハイマー病にかかった人の恐怖感を増大させるのである。安全性というのは重大な意味のあるものではあるが、だからといって意に沿わない拘束や縛りつけられることに対する怒りを正当化するものではない。ただし、せん� ��状態のような極端な場合に、ごく一時的におこなう場合はおそらく例外としてよいだろう。いくつもの研究によって、身体的拘束が転倒を少なくすることはなく、患者がだらしなく依存的になることを促進させ、恐怖感や屈辱感からくる攻撃性を抑えるために向精神薬や抗不安薬の使用を増加させ、認知障害を悪化するということが明らかにされてからは、この方法は急速に用いられなくなっている。短期間、頻回に観察しながら緊急の管理方法としてきちんとなされるものなら、身体的拘束もごく稀には是認されるだろう。身体的拘束を用いなかったとして法的に訴えられた長期ケア施設はないが、身体的拘束の誤った用い方や過度の用い方をしたとして訴えられた施設はある。
家族介護者は、家族に攻撃的になったり恐怖を抱� ��せたり情緒的ストレスを引き起こしたりするような行動に対して、医師に速やかに「何とかしてくれる」よう圧力をかけることもあるだろう。社会的にもこのような行動は、殆どは薬物的方法でではあるが、早急にコントロールされるように期待されている。介護者は、既に色々の複雑な務めを処理している『最盛期の女性』であることもあるし、妄想を抱いたり興奮している老いた親は、限界を超える負担であろう。このような種々の理由から、家族が環境及び社会心理的な方法で、問題行動をコントロールしようとし続けることは困難なことである。
しかし、行動を制御する薬物は、注意深く特定の目的に沿ってのみ用いられるべきである。薬物治療は抑うつ状態、精神症状、不安や睡眠障害を治療するため用いるのは良いだ� ��う。精神活動に作用する薬物が用いられる時は、治療の目的とその目標となる症状がはっきりと定められているべきである。薬の種類はできるだけ少なく、低容量から始められるべきである。投薬量は注意深く、副作用の出現を観察しながら増量されていくべきである。介護者が指示された状態、例えば強い抵抗性など、に対する薬の反応を毎日観察することも重要である。
多剤療法や過度の鎮静は痴呆状態の人々にとっては特に問題となる。問題行動(徘徊、不穏、苛立ち等)を減らすための薬剤が多すぎて、残された認知機能に影響を与えたり、副作用をもたらすような量で用いられる場合は、倫理的に問題となろう。臨床経験上及び科学的証拠から、痴呆患者の問題行動は、通常の患者に用いられるよりも少ない量でコントロ ールできることが示されている。逆に抑うつ状態を示す症例の中には、薬物の処方が少ないこともある。理想的には、身体的、社会心理的環境調整への努力が薬物治療に優先して試みられるべきであろう。
ほとんどの家族は、できるなら痴呆になった人を家で看たいと思っている。控えめに用いれば、薬は望みどうりの治療的効果をもたらし、家庭でケアできる環境を維持し、介護者の負担を軽減し、身体拘束を必要ないものにしてくれる。明確な短期的目標を達成するために注意深く用いるのであれば、薬はかなり実り多いものになりうるのである。
死や死にゆくことに関する議論
アルツハイマー病は末期に至る疾患であるが、通常死は、肺炎やこの疾患が悪化させる他の何らかの原因でもたらされる。それ故、たとえ Medicare のホスピス治療の基準、すなわち予想される余命が6カ月以内、に適合するようなせまい意味での「末期」の基準からは外れているとしても、アルツハイマー病にかかっているということは末期状態である。たとえ死が、数年から20年以内の広い範囲のどこかで起こるにしても、アルツハイマー病は末期の疾患である。
しかしながら、一般的には死は十分に議論されていない。良い死というものは、その人の価値が死にゆく過程の中にしっかりと組み込まれていることである。診断後直ちにアルツハイマー病を末期状態として説明することは絶対に必要とはいえないが、罹患した人が今後のケア計画に加わるようになるまでには、その家族とともに現実的問題として死が話し合われるべきであろう。
痴呆になった人を継続� �て治療していく医師は、延命に関する積極的措置の使用に関して患者とその家族との間で議論を始めていくのがよいだろう。軽度の痴呆の人達は、終末期の治療選択の希望に関する質問にきちんとした解答を示しうることが多い。罹患した人とその家族との間の葛藤や意見の不一致は、早くから継続して話し合いをもつことで避けられるし解決することができる。判断能力を有する老人では彼等の考え方は明確であり首尾一貫していることが多い。はっきりとした利点がないと思われる延命措置を回避するという点で特にそうである。
自主的決定権の尊重という道徳的原則に照らせば、家族は愛する者の意思を尊重する義務がある。必要ならヘルスケアの専門家はこのような態度の重要性を家族にはっきりさせるために、家族と話� �合うための時間を割くべきである。この原則の例外は、例えば苦痛を伴う尿路感染症や耳疾患の治療など、快適さや症状の緩和のために明らかに必要な治療に関する時だけである。
ここで、iは、ウォーキシャウイスコンシン州にあるボディラップを得ることができます
プライマリケア医は、普段からすべての老人患者と価値観や死について話し合う必要があるとの主張がある。そうすれば、患者は延命治療に関する好みを痴呆症状が悪化する以前に言っておくことができる。こうすれば患者が延命措置を嫌っているという事実を受け入れられない人々が、アルツハイマー病にかかっている人の優先的決定能力に関する疑問を呈したりすることはなくなるだろう。医師が患者の希望をきちんと知り尊重するために、まだ決定能力のある老人と直接話し合うことは有用であるが、家族も必要ならその話し合いに参加すべきであろう。もし明らかにその人の最大の利益に適合し ているなら、家族に、記録として残された彼自身の希望を無視して欲しい、と思っている人がいることも事実である。それ故、痴呆になった人に、どの程度厳密にその人の事前の指示を尊重して欲しいと思っているのかを尋ねることもよいだろう。予期せぬ事態に対して、家族が対処してもよいと認められている場合においても、痴呆になった人の選択に効果を持たせる一つの方法は、生前の意志と、その人のヘルスケアをしている人への永続性のある委任状、とを結びつけた事前の指示にそって選択を行う ようにすることである。ヘルスケアに関する委任状を有する指定代理人は、通常、信頼されている家族のひとりである。 委任状と生前の意志のこのふたつを結びつけた記録には、代理人に全般的なガイドラインを与えるために、痴呆になった人からの価値観に関する記載が含まれる。またその記録は、代理人が本人に代わって判断するという形で特定の決断を下すことも可能にする。すなわち、そのような判断の基礎となる充分な証拠があるという条件の下で、もしその人に能力があればそうしたであろうと思われるやり方で、治療の選択をするという誠実な努力である。
このようなやり方は、生前の意志を限界づけてしまう曖昧さや予期せぬ状況の出現という問題を解決してくれる。事前の指示は痴呆研究への参加の意志も含み うる。事前の指示というものは完璧な手段とはいえず、基本的な問題に関する議論も続いているが、にもかかわらず、充分な社会的認知を受けており納得のいく有用な手段である。 裁判所は、明確な計画や書類が完成していない時でも、家族から(医師との話し合いの上での)意志決定権を奪うべきでない。
メアリー・オコーナーの場合、ニューヨーク州の最高審は彼女の希望を受け、その最大の利益に沿うとして、この多発脳梗塞性痴呆の77歳の老婦人が、家族の反対の意志にも関わらず延命措置を受けるべきであるとの判決を出した。この裁判所は、決定能力のない人々の生
命を維持することに対する州政府の関心と、この婦人からの明らかな証言がないことを引き合いに出した。幸いこのケースは特殊なものである。しかしこのような裁判所の判決は、自分たちの愛する者の価値観や最大の利益に家族が介渉することの権限を脅かしているのである。
ホスピスの思想は、進行した痴呆状態の人をケアするのにとても適している。政策立案者から提起されているひとつの難しさは、ホスピス利用には、6カ月以内に死ぬ可能性があるという医師による判断が必要だと言う点である。ホスピスは今後、痴呆に関して起こる問題やより長期のケアが可能なように準備されていく必要性があると思われる。進行したアルツハイマー病の患者では、熱がでると6カ月以内に死亡する可能性があるとも言わ� �ている。このことは臨床的判断と合わせて用いれば、ホスピス利用について痴呆患者を Medicare でカバーできることを示している。
ヘルスケア専門家や家族構成員は、治療を中断したり拒否する権利と自殺幇助や安楽死(慈悲による殺人)を同等に考えるべきではない。実際、周囲の環境や他者の意図に対する深い理解に欠ける重度の痴呆を有する人々にとって、積極的医学的介入は拷問的なものである。判断能力のある人が蘇生措置をしないよう希望していて(蘇生しない指示(DNR))その要求が守られなかった場合、世の中はヘルスケアシステムに対する信頼を失うだろう。人々が、自分たちの治療を拒否する権利が尊重されないのではないかという不安を抱くと、自殺、自殺幇助や安楽死がその代替案として考え出されるのである。米国老年医学会に所属する医師の大多数(61%)とアルツハイマー協会に参加して いる家族介護者の71%が、痴呆の終末期にはホスピスでのケアを望んでいる。
生活の質(QOL)と治療の選択
を含んでいるために困難である。すなわち認知機能が障害を受けていない人は、この要素を無視するような生活の質についての主張はしないに違いない。生活の質という概念は客観的要素(外からの観察)と主観的要素(内からの自己認識)を合わせ持っているので複雑なものである。
生活の質の要素には次のようなものが含まれている。判断し問題を解決すること、最近の出来事を覚えていること、過去の出来事を思い出すこと、仕事・金銭や社会的つき合いなどを処理すること、趣味や興味あることをすること、人間関係を作り保つこと、身近な家族や親しい友人を見分けること、感動を味わうこと、自分自身を認識すること、将来の計画を立てること、排尿・排便をコントロールすること、言葉で意思を伝え合うこ� ��などである。これらの能力の一部やすべてが失われると言う事実が、人々がかくもアルツハイマー病を恐れている理由を説明してくれる。
道徳的に納得のいく物事ということが、アルツハイマー病にかかった人が抱く生活の質の感覚であり、介護者達は私たちが彼等のそのレベルで合わせないといけないと強調している。情緒性の乏しい生活がアルツハイマー病の質的問題のひとつではあるが、介護者は何が痴呆になった人を幸せな気分にさせるかを学ばないといけない。 生活の質の判断は、自ら行う予言でもある。否定的判断へ傾いていくと、痴呆になった人の生活の質を高める可能性のある個人的かつ社会的資源の投資を不可能にしてしまうだろう。 生活の質は痴呆になった人の幸福感を高める支援環境の創造次第という� ��ころがある。"生活の質"というよりは"生活の質群"であるという人々もいる。なぜなら、質は支援方法を通じて他人の生活と結びついた人間関係に関わるからである。
患者の内的経験を信頼にたる程に定量化することは不可能であるから、生活の質は外からの観察では評価できない主観的側面を有している。それ故注意が必要である。生活の質の判断は、社会から非生産的メンバーを排除する目的で誤って用いられることがありうる。しかし、痴呆の進行過程においては、延命治療の制限を望むことが多くの人にとって正当とみなされるような、生活の質が強く妥協させられる時点が訪れる。 進行性の痴呆の重症度は経過の中で評価されるので、患者が物を言わなくなって、あらゆる相互反応能力がなくなったり、もはや愛� ��る人を識別できなくなったりする時点のような、道徳的に意味のある境界点を設けても良いだろう。
道徳的意義に関するこのような境界点についての一般的な合意というのはあり得ない。家族によっては、患者を「もはや存在しない」と言うだろう。このような時点に至れば、人間的生命の意義も実質も崩壊している。そして、医学的治療をしない(快適さを与えるケアは除く)と言う決定も受け入れられるだろう。医学的に無益であるという理由で抵抗を受ける治療もあるだろう。しかし、医学的な無益さと生活の質とは混同されてはならない。 非常に進行して末期に至った痴呆(物を言わない、寝たきり、失禁、測定できないほどの知的機能、避けられない死)では、快適さを与えるケアが、なされるべきすべてのものである。快適さを与えるケアとは緩和ケアのことである。すなわ� ��、人工的栄養、水分補給、透析、そして痛みと不快感を和らげるためには不必要な医学的介入のすべて、を含まないものである。ある種の治療(例えば、抗生物質)は快適さを与えるケアとして用いられても、緩和作用としては効果は疑わしく、予定外の副作用として延命してしまうことがある。痴呆ケアの長期目標は延命よりも情緒的幸福感と快適さであると信じている人々もいる。
もしこれが確立した目標であるなら、医学的治療に関する多くの決定が簡単になるだろう。生活の質は維持されるべきである。介護者は痴呆になった人を注意深く観察し続け、与えることの出来る喜びや快適さはどんなものでも与えるべきである。栄養補給のための管は快適さを与えるケアの方法となることは滅多になく、優しく手で触れること� ��そのような方法となる。対人関係は、腹部から突出している異物が見えることから比べれば、ずっと患者を快適にするだろう。医学的に「何かをする」ことは、もっと良い「共にいる」ことよりもやりやすいことが多い。
しかし、我々のグループの会議の中で、ある家族介護者は次のように言っている。私達の多くは認知機能に関心を高く持ちすぎるために、アルツハイマー病になった人の生活の質を正当な評価よりも否定的に考えていると。この介護者は、彼女の父親C.E.の話をしてくれた。C.E.は重度の痴呆状態にあった時でも、朝も夜も一日中カウボーイハットをかぶっていた。彼はそれが彼の中心的な自分のアイデンティティーと考えていたからである。彼は彼の娘が誰なのか忘れてしまうようになった後も、長� ��間トランプのゲームをすることが出来た。「知的能力を有している人々はお父さんが喜ぶ時々を、それがいいものだとは思わないかもしれない。けれども、お父さんはナーシングホームでの人間関係を本当に楽しんでいた。私達知的能力を残している者は、お父さんのような人々の陪審員ではないのです」と彼女は言っていた。もうひとりの介護者は、旅行が好きだった彼の妻の話をしてくれた。彼女が自分の診断のことを聞いてから、旅行の計画が増えていった。彼女とその家族は合衆国中を旅行してまわった。木の葉が色づく頃のニューイングランドへの秋の旅行もあった。介護者は言った。「 ナーシングホームにいた頃でさえ、私達は森の小径を散歩することで旅をしていました。彼女は小鳥に口笛を吹き、きれいな花を見つけ出しました。言葉使いがわからなくなり言葉は滅裂だったけれども、それでも彼女は私を愛していると言うことを忘れることはありませんでした。今は、彼女の音楽への反応も減りましたし、彼女は静かな音楽の方を、昔好きだった音楽よりも好むようになりました。音楽は、興奮している時でもいつも彼女の気持ちを鎮めてくれます。彼女はよく微笑み、親しい人々に腕などに触れられることを喜びます。」
さらに調査が必要ではあるが、予備的調査(44名の意識清明なナーシングホーム在住の老人に対して、症例を示し考えてもらう形式の質問による研究)のデータはナーシングホーム在住 の老人の大多数が、痴呆が進行したときには快適さを与えるだけのケアや、緩和治療のみを望んでいることが示された。少数は積極的治療を望んではいるが。管理されたケアプランや、MedicareやMedicaid のような税金で賄われているプログラムは、コスト上治療にある種の制限を設けるべきであるという考えは論拠のあるものといえる。重度の痴呆の人は「安く死ぬ義務」があると信じている加入者の「事前の同意」を基礎とした場合には、特にコスト面の関心があるので。積極的治療を望むものは、その自らの選択に対して経済上の責を負うべきかもしれないナーシングホームでの生活の質は、入居者の自主的決定権にかかわりを持ち、治療拒否の意思を尊重する必要がある。政府の規制はこの二つの目標を強力に支持するべきである。1950年来ナーシングホームはかなり医療的になり、入居者は古典的な受け身の病人の役割を求められるようになった。
1986年に、医学協会(Institute of Medicine)は入居者への尊厳に基づくナーシングホームでの生活の質を、医療モデルの代替案として重視する重要な発言を行った。1987年に、合衆国議会は第一義に安全性と健康さに焦点を当てた規制をナーシングホームに課した。総括的予算調和条例は入居者の権利として訓練を加えた。ある専門家は「ナーシングホームに対する規制はまず第一に安全性を重視すべきである」と述べている。合衆国保健省とアルツハイマー病に関する人間的サービスへの助言委員会は明確に述べている。「生活の質、広く定義された、を単なる生存よりも重視する」と。 多くのナーシングホームの専門スタッフはこの原則に忠実であるか、出来る限り忠実であろうとしている。しかし、州の規則には、少なくとも州監査院から説明される時には、入居� ��の価値観や治療決定権への配慮はあまり見られない。規則は多くの状況で積極的な保護的機能を果たしているが、痴呆の状態や家族によってなされなければならない倫理的選択の複雑さを考慮に入れていない。
カロリー摂取に関する規則はこのような問題のよい例を示してくれる。進行した末期痴呆の人が穏やかに死んでいくようにすると、死への自然経過の間じゅう彼等を見てないといけないので、そうすることを嫌がるナーシングホームがある。そのかわり、そういう所では、むしろ居住者の体重減少によって州から処罰を受ける可能性に配慮し、日常的に人工栄養を与えている。もし痴呆になった人が前もって希望するなら法的に許される処置である、人工栄養と点滴の中止を実行するために、ナーシングホームが居住者を� ��三次ケア病院へ転院させてしまうことは珍しいことではない。しかしながら、このような転院は家族や看護スタッフにとっては、心の傷となる体験である。
重度の痴呆の人が死んで行くことを適切に受け入れることは、法的義務に対してある種の危険を冒すことにはなるが、ナーシングホームは、それでも正しいと思われることを行い、必要ならば州政府に挑戦すべきである。しかし、法的義務という恐怖は、悲しむべき寒々しい効果を有している。かのプラトンの言葉「死にゆく人への食物は毒と同じである」を忘れてはならない。疾患末期での点滴や栄養補給は病気の原因とはならないが、頻回に人工栄養を与えることは、不快な副作用である肥満や嚥下性肺炎の原因となることが臨床的事実として積み重ねられている。州政� ��の視察官は、痴呆や倫理的問題を考慮に入れるよりも体重の測定に興味を示すことがよくある。ナーシングホームはもっと次のように主張しても良いと思う。視察官は倫理学的な面でもっと教育を受けるべきであり、規制も痴呆を有する人々の周囲に起こる特有の問題に対する明解さをもっているべきであると。
おわりのコメント
このガイドラインは、不可逆的痴呆の進行過程で起こるすべての問題をカバーしているわけではない。しかしながら世の中が高齢化し、アルツハイマー型の痴呆がさらにありふれたものとなるに従い、真剣に考えられるべきであろう倫理的な問題の領域は何かを示していると思う。時間の関係上、討論参加者によって選ばれなかった問題としては、研究面での倫理的問題、アルツハイマー病の遺伝の問題などがある。20世紀が幕を閉じようとしている時、医学倫理や社会に対して最も緊急を要する関心を引き起こしているのが、平穏に生きつづけている肉体の中で、心が衰退していくということである。私達の近代的工業文明の特徴である技術的理由づけや生産性への重視は、痴呆を有す� ��人々に対する偏見を生み出しうる。たとえ痴呆になっても情緒的かつ人間的交わりの幸福感を増大させることができることを知ること、そして、人間的尊厳は尊重されるべきであると強く主張することは大切なことである。重度の痴呆患者の尊厳に対する敬意が最もよく表されるのは、技術を介してではなく、人の手のふれあいを通じてであろう。
訳語に関して people with dementia:patientsという語を使わないのは、それなりの思い入れがあるからと考え「痴呆になった人」と訳し、「患者」という言葉はpatients の時のみ用いました
advance directives:「事前の指示」と訳しました。
living will:「生前の意志」と訳しました。
autonomy:「自主的決定権」と訳しました。「自己決定権」でもよいと思います。
capacity:「能力」と訳しました。
competence:「権限」と訳しました。
註:本論文は,アメリカ老年医学会雑誌"Journal of American Geriatrics Society"43 巻12号(1995年12月号)に掲載された"Fairhill Guidlines on Ethics of the Care of People With Alzheimer's Disease:A Clinical Summary"を出版社のWilliams & Wilkins,A Waverly Company(USA)の承諾を得て全訳、掲載しました。[(社)家族の会三宅貴夫]
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